秋のひとかけ
久しぶりに秋らしい爽やかな快晴。
風は涼しいものの、まだまだ日差しは暑いので、避暑と運動不足を解消するために奈良南部の大峰山麓の町、洞川に行ってきた。
役行者所縁の地で、今も初夏から秋にかけては修行の山伏で賑わう。
真言宗醍醐派本山竜泉寺。修験の寺で、時折法螺貝の音が聞こえてくる。
町を囲む山々の中腹を歩く遊歩道が通っていて、一周約4キロのちょっとしたハイキングが出来る。
山際にはいくつか鍾乳洞があって、中に入ることができる。
洞窟の中は常に7℃くらい保たれているそうで、外の暑さが嘘のようにひんやりしている。吐く息も白い。
内部はライトアップされ、人の姿や風景に見立てた銘がつけられている。
町の中心には渓流が通り、周囲にはキャンプや水遊びのグループが。悲鳴が上がるほど冷たい水に歩き疲れた足を浸したら、驚くほどスッキリ軽くなった。
標高約900mのこの土地では、一足早く秋がきている。
西へ西へ
午後半休を取得して、「始皇帝と大兵馬俑展」に行ってきた。いま、空前の西安ブームなのだ。私のなかで。
会場の国立国際美術館は職場から徒歩圏内。雨上がりの中之島を、川風に吹かれながら歩くのは気持ちいい。同じように件の美術館に向かうらしき年配夫婦がちらほら歩いている。
平日だというのに結構な混雑で、これが土日祝日だったらどうなっていたのだろうとそら恐ろしい。金曜日は19時(入場は18時半)まで開いているそうなので、その辺りが狙い目かもしれない。
兵馬俑は圧巻で、結った髪の筋や靴底の紋などディテールまで表現されていたことに驚く。現地ではこれが無数に、まさに大軍勢として地中にあったという。
兵馬俑の「俑」というのは、副葬品とする焼き物のことなんだそう。日本の埴輪のように、兵馬のみならず、侍女や竈など、ままごと道具のような俑もある。現世のものの一切を死後の世界にも持っていこうとしていたのだ。
兵馬俑関連だけでなく、始皇帝の偉業として度量衡や貨幣の統一に触れており、また周辺各国を支配下におき統一国家を造り上げた結果、多様な文化や意匠が混ざりあった痕跡などが紹介されている。
終わりに、レプリカの写真を撮れるコーナーもあった。兵士たちと記念撮影ができる。
そして、少年期の始皇帝が友と共に全土を統一していく物語『キングダム』のパネルも。
去年チベットに行く際、青海鉄道の20時間を電子書籍で持っていった『キングダム』を読んで過ごした。
当時はこんなところに繋がるとは思っても見なかったけど、そんな訳で次は兵馬俑を見に西安に行こうと思う。
来月あたり。
歴史の横道
夏期休暇明けに月末月初というハードな一週間を終えて、紀伊半島奥地の温泉地までドライブ。
奈良県南部の五條市の本陣から国道168号線をひたすら南下。途中、南北朝時代に南朝方の皇居が置かれた賀名生(あのう)を通り、道の駅 吉野路大塔の向かいにある郷土館でランチ。
大塔は、後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王が立ち寄ったとされ、その名に因んだ地名。後に、幕末には維新を志す天誅組の本陣が五條からまさにこの屋敷に移され、十津川郷士の力を借りるも幕府に敗れたという歴史を持つ所。
護良親王
今では、郷土料理が食べられる古民家カフェと言ったところ。座敷の縁側でゆるい風に吹かれつつ、名物の高菜で包んだめはり寿司が美味しかった。
国道を更に南下して、十津川村に入る。
ちょうど、東日本大震災の年に起きた、紀伊半島豪雨災害の慰霊祭が行われていた。沿線の山肌には大規模な土砂崩れの跡を覆った擁壁も見られ、道路沿いには新たな崩落を工事していたりする。険しい土地だ。
その代わりと言うべきか、良泉に恵まれている。
関西では珍しい硫黄泉の源泉掛け流しの温泉が、村の公衆浴場を含め大小あちこちにある。温度が50℃以上と高く、入浴の際には自分で水を足して温度を下げないといけない。
それでも効能は高く、湯上がりには大量の汗をかき、そのあとは驚くほど身体が軽くなる。
辿り着くのは大変だけれど、その価値のある秘湯だ。
村の中心部にあたる役場横の道の駅では、北海道の新十津川町で作られた名産のメロンアイスクリームが売られていた。新十津川は、明治時代に起きた十津川の大規模で家や土地を流された人たちが新天地を求めて開拓した町で、今でもルーツであるこの十津川村と交流が続けられているのだとか。
メロンの風味が濃厚で、美味しいアイスバーだった。
ちなみに、この道の駅 十津川郷には源泉掛け流しの足湯もあり、ドライバーやライダーの旅の疲れを一時癒す憩いの場となっている。
この十津川温泉への道のりはまた、歴史の大きな流れの立役者のすぐ傍らにあった人々に想いを馳せ、遡るルートになっている。
聖なる入り江
少し遅めの夏期休暇で、長崎県の五島列島に行ってきた。この数年、五島列島の教会群は世界遺産の候補になっているので、登録前のまだ静かなうちに行ってみたかった。
長崎空港から小さなプロペラ機を乗り継いで福江島に入る。窓から見える景色でまず驚いたのは、五島の海の透明さ。こういう海があることを知らなかったというくらい、青く澄んでいる。
久賀島
旧五輪教会
そして、山間や海辺の集落に、驚くほど立派な聖堂がある。
楠原教会
水ノ浦教会
五島エリアのカトリック信者数は8%くらい。日本の平均が3%程度なのでやはり多いし、世界遺産候補として地域全体で働きかけているためか、存在感がとても大きい。その事に驚いたし、不思議な感じがした。
福江島は、東シナ海を望む西の端にあたる。かつては遣唐使船が唐に渡る前に最後に寄港して水や食糧などを補給し、ここから大海原に乗り出していった。
遣唐使船で留学僧として唐に渡った空海も立ち寄ったとされ、「本涯を辞す(日本の最果てを去る)」という漢詩を残している。
岬には、まだ若い姿の空海像が立っていた。
福江島はまた城下町でもあった。地理的に中国大陸や朝鮮半島に近く、防衛の最前線の役割を担っていた。江戸末期に建てられた石田城は日本最後の城と言われている。
こんな小さな島にも関わらず、幾重にも外濠を廻らせている。
海岸線はリアス式のように複雑な入り江を持ち、お陰で穏やかで豊かな海と、禁教下ではキリシタンたちの隠れ場所を得ることができた。
キリシタン弾圧の悲劇を内包しながらも、神に祝別されたような恩恵の島に見えた。